村上春樹「村上T 僕の愛したTシャツたち」

坪内祐三さんは、村上春樹シドニー!」の書評を以下のように書き始めました。

 村上春樹は文筆家として四つの顔を持つ。

 作家、翻訳家、ノンフィクションライター、コラムニストである。

 私は読者として、作家村上春樹は×、翻訳家村上春樹は〇、ノンフィクションライター村上春樹は〇、コラムニスト村上春樹は◎である。 この内、ノンフィクションライター村上春樹が〇であるのはちょっと説明がいるかもしれない。

 社会派ノンフィクションライター村上春樹は×である。しかし、もっとリラックスした(村上春樹的にリラックスした)ノンフィクションライター村上春樹は◎である。それを足して二で割ると〇なのだ。

 ということで、シドニーオリンピックのことを描いたこの長篇ノンフィクション「シドニー!」は◎だ。

シドニーオリンピックは2000年のことで、「文庫を狙え!」で取り上げられたのは2004年7月22日号の「週刊文春」。

シドニーオリンピックが20年前で、文庫化が16年前という年月の経過に驚きますが、坪内祐三さんの村上春樹に対する評価に私も同意します。

 

私が最後に読んだ村上春樹の新しい小説は「海辺のカフカ」ですが、コラムニスト村上春樹のことは今でも追っています。翻訳家村上春樹は「結婚式のメンバー」を買ったりしてますが、全然読めてないです(今日、図書館で「グレート・ギャツビーを追え」を借りて来たので中田英寿みたいに計画的に読もうと思っています)。ノンフィクションライター村上春樹は最近音沙汰ないですが、いかがお過ごしでしょうか。

文筆業ではないですが、2018年からはラジオパーソナリティという顔も加わっています。

 
さて、コラムニスト村上春樹の最新作「村上T」は村上春樹が所有するTシャツについて語るリラックスしたコラム集です。雑誌「POPEYE」で2018年から1年半に渡り連載された同名連載に、連載開始時と連載を終えてのインタビューも収録されています。

前作「サラダ好きのライオン 村上ラヂオ3」は2012年7月刊行なのでコラムニストとしては8年ぶりの新刊です。

 

リラックスした内容や色とりどりのTシャツのデザインが楽しい作品ですが、読み終えて感じるのは、村上春樹に対するとらえどころのなさです。村上春樹の所有するTシャツのジャンルが広すぎて中心に触れることが出来ないのです。

ダウンタウン浜田雅功さんは「地名の入っているTシャツは着ない」と言っていました。私の所有するTシャツはミュージシャンのグッズ(マーチ)が9割。

Tシャツ好きなら何らかのこだわりがあるはず。しかし、村上春樹の所有するTシャツは多岐にわたり、108枚のTシャツから軸やこだわりを嗅ぎ取ることができませんでした。

 

本書の帯には「Tシャツをめぐる18篇のエピソードと108枚のお気に入りのTシャツを収録」とあります。18篇のタイトルをいくつか挙げると「夏はサーフィン」「ハンバーガーとケチャップ」「ウィスキー」「レコード屋は楽しい」「スプリングスティーンとブライアン」で、それぞれのタイトルに関連したTシャツの写真が掲載されています。

収録されているインタビューでは「選ぶ基準はもちろんデザイン、あとはジャンル。僕はレコードプレーヤーとかレコードが入っているTシャツがあるとたいがい買っちゃいますね。それはそのジャンルが好きだから(笑)。何枚かここにもあります。あとはビール、自動車、広告Tシャツも好きですね。」と話しています。

インタビューで話しているレコード、ビール、自動車、広告だけでなく、食べ物(ケチャップ、タバスコ)、ウィスキー、マラソン、サーフィン、動物、ミュージシャン、映画、大学、タイポグラフィティなど多ジャンルに広がっているのです。


自分に置き換えた場合、掲載されているTシャツはどれも魅力的なTシャツなので、例えば旅先や他の服を買うついでに1枚2枚買うことはあるかもしれません。けれど、日々の生活の中で選別が行われ、選別から外れたジャンルのものは徐々に買わなくなっていきます。

例えば、ユニクロのTシャツは一時期「鉄コン筋クリート」や「バタアシ金魚」などのものを何枚か買ったけれど、結局生地の薄さが気になって着なくなり、いまでは買うことがなくなりました。

 

しかし、村上春樹は多ジャンルのTシャツを同じ筆致、同じテンションで紹介していきます。買った日は前後しているでしょうが、紹介しているのは現在の村上春樹なのに、温度の差を読み取ることは出来ません。

着たことがないと書かれているTシャツも多くありますが、状態やくたびれ具合は全部同じように見えます。

村上春樹はリラックスしていますが、リラックスしているからといって村上春樹の私生活を読み取ることはできない作品です。

「村上T」というコラム集、軽く読み通せてしまいますが、恐ろしい一冊です。

 

さて、村上春樹の大切な1枚はどれでしょうか?巻末のインタビューでは野村訓市の「ここにある200枚近くのTシャツの中でお気に入りというか、思い入れのあるものはどれでしょうか?」という質問に対して以下のように答えています。 

これかな。"TONY"TAKITANIと書いてあるこのTシャツを買って、「トニー滝谷」という短編小説を書いたんです。このTシャツを買って、トニー滝谷ってどんな人だろう?と思い、いろいろ勝手に想像して、それが小説になったんです。だからこれは記念すべきものですね。

 小説家村上春樹にとってのお気に入りであり、Tシャツ好きな村上春樹のお気に入りではありませんでした。ここでもかわされてしまいます。

 

ちなみに、都築響一の編んだ「捨てられないTシャツ」には68歳男性で京都府出身の小説家が「1983年のホノルル・マラソン完走Tシャツ」を捨てられない1枚に選んでいます。こちらも着たことはないそうです。