ネタバレは気にしない

ネタバレには2種類あります。「物語の結末」と「競技の結果」です。

「競技の結果」の方はオンタイムで接することのできない人が結果に触れるのを回避しようとしたが「ネタバレを食らってしまった」と言うように、受け手に責任があります。

「物語の結末」の時間軸も「競技の結果」と同じであれば、発売日や公開日以降に「ネタバレに接する」のは受けての責任であるはずです。しかし、昨今は発売日や公開日以降であっても結末を明かすのを避けるようになっています。

読書記録アプリ「読書メーター」には感想を書き込む際、ネタバレがあるかどうかのチェックボックスがあり、チェックを入れると靄がかかったような加工がされる仕様になっています。
小説の帯には「ネタバレ厳禁」と書かれ、公開直後の映画を語る際は結末に言及することを回避されています。
受け手側がネタバレを行った者に対する糾弾を行うこともあるため、送り出す側は「ネタバレを含みます」とエクスキューズするようになりました。

そもそも、結末を先に知らされたくらいでコンテンツの価値は揺らぐのでしょうか?
M-1グランプリ」や「キングオブコント」は誰が優勝するかよりも、新しいコンビの登場や
応援しているコンビの奮闘、生放送でみることでTwitterのタイムラインから感じる熱狂に重きがあります。
ラッパーの新曲にフィーチャリングされたゲストはYouTubeのプレミアム公開を観て知っても、Twitterで知っても驚きは変わらないはずです。

タイタニック」でタイタニック号は沈んで、「シックスセンス」の子どもは幽霊だったってのは公開から20年くらいの年月が経っているから今さらワーワー言われることもないんでしょうが、20年待たなければいけないのでしょうか?

追いかけているNHKの朝ドラ「おかえりモネ」は1週間分溜めて数話ずつ見ていますが、スマホを見るたびに今日はどんな進展があったかをネットニュースに知らされます。結末を知らされたとしても「おかえりモネ」を見なくなることはありません。
物語の閉じられ方にも関心はあるけれど、私には清原果耶や蒔田彩珠(モネの妹の未知)、恒松祐里(モネの友人の明日美)が存在感を発揮してくれることの方が重要なのです。
余談ですが、「おかえりモネ」の脚本家・安達奈緒子は「きのう何食べた?」も書いていて、西島秀俊内野聖陽という主人公2人が「おかえりモネ」では上司と父親でキャスティングされていて、モネの会社に来て2人が語り合うのはファンサービスでもあったのかと推測します。

物語に接する際は結末よりも、語り口や語られる言葉、結末への道筋を重要視しています。
しかしながら、昨今のネタバレ回避への過剰な対応は、結末を何よりも重要視するようになっているためでしょうか?
結末の重要視については、「M-1グランプリ」での審査員コメントで耳にする「もうひと展開欲しかった」「オチが弱かった」にもつながります。

ネタバレ回避の風潮の一方で、ファスト映画のように結末だけを拾い上げるものにも需要があります。ファスト映画は著作権侵害で取り締まられて根絶されるのであって、需要がなくなったからフェードアウトしたわけではないので、この問題に片が付いたわけではありません。

「どこでもドア」ができても旅行の楽しみはなくならないよな、と今は思うんですが、実際にできたら旅行なんてしなくなるんでしょうか?

結末を重視する風潮が続いているので、「遠回りじゃないよ/真っ直ぐな道を蛇行しているだけ」と歌うアナログフィッシュがメインストリームを闊歩していないことの理由も察せます。

わかってねぇな。