樋口毅宏「おっぱいがほしい!」


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週刊新潮」に2016年5月から1年間連載された本作は、2015年11月2日に産まれた長男を同年12月15日から2016年12月29日にかけて育児する日々をまとめた作品です。

樋口毅宏の著作で読んだことあるのは「タモリ論」「さよなら小沢健二」と「ドルフィン・ソングを救え!」。氏の小説は、サイン入りの文庫を含めて何冊も買ったことがあるけれど読み通せた小説は1作のみ。「ドルフィン・ソングを救え」は全然面白くなかったけど、「タモリ論」「さよなら小沢健二」は面白く読めました。

氏の小説は多様な引用が特徴であり、巻末に参考文献としていくつもの作品名が並ぶのが通例でした。そういう読者からすると、「おっぱいがほしい」は氏の著作の中では最もサブカル濃度が薄く、引用も限られています。

小説という創作とは異なり、日々の瞬間瞬間のことを切り取っているためだからでしょう。

自分でも書きはじめた育児日記において、育児の割り合いはどんどん減り、今ではメモ程度になっています。見飽きることはないけれど、発見や成長が常にあるわけでなく、本人は言葉を発しないし、動くこともないから、育児のことだけで毎日書き続けることはなかなか困難なことです。

そのことは本書「おっぱいがほしい」においても同様です。

息子・一文に対しては期待と愛情どちらかの言葉が注がれており、子を持つ親として理解・共感する一方で、読者としてはその平和さに対して退屈さを感じてしまいます。

一方、妻である弁護士の三輪記子さんには、愛情と憎悪と軽蔑と好奇が入り交じる多彩な言葉の銃弾を浴びせています。

真鍋かをりさんが寄稿した書評も、共演していた三輪記子が“やべえヤツ”であると発覚したことの驚きと、その後の交流の楽しさに重きがおかれていました。

ついでにいえば、真鍋かをりも育児エッセイを出せばいいのにと思うけれど、旦那・吉井和哉のイメージを守らなければいけないから、永遠に出ることはないんだろうな。吉井和哉の前妻の子どもとの関係とか、育児への協力具合とか興味あるんだけどな。

妻である三輪記子の性豪ぶりを紹介する一方で、妻の口を介して著者がデカチンであることが判明します。声が高く、ナイーブさを装う一方で、性欲旺盛な妻からの要求を断らない著者自身も十分に性豪であることがわかり、結局は似たもの夫婦だったわけです。

エロ本編集という出自と著者の風貌が噛み合っていないように感じていましたが、エロ本編集者は適職だったのだと思った次第です。そういえば、「日本のセックス」という著作もありました。

一般的には「育児エッセイ」に分類されて「ほのぼの」を期待されるのでしょうが、正確には「デカチンがヤリマンと結婚して、育児をすることになった話」です。

書きおろしとして挿入された4つの長めの文章を読むと出会いから妊娠、出産にいたるまでのことが自主規制はないのかと思うほど赤裸々に書かれています。きれいごとに終始しないところが信用できるなと感じます。

町山智浩さんによる、容赦ない装画も楽しめました。3点選ぶなら子育てを楽しかったと回想した2点と、サニーデイ・サービス「セツナ」MVからの1コマ。

 


2016年9月に「太陽がいっぱい」刊行に際して断筆宣言をした著者ですが、「小説現代」8月号に短編「ノヴァーリスの銀行強盗」が掲載されています。

個人的には「小説家・樋口毅宏」が復帰する必要はないと思わされました。

東大の院生(童貞)が論文を認められなかったことに激昂して教授を射殺し、そのまま銀行に籠城。ニコ生で言語学についての演説を放つが、警察が好きな女性を連れてきてそのまま2人でチョメチョメかと思ったら、女性の仕草から処女でないと絶望し、そのまま夢見心地で終わる、というストーリー。

薄すぎて驚きました。私が買っていた作家の最新作がこれかと。

作中でオリラジ中田や櫻井よし子、百田のことを批判しますが、そんなことを創作した人たちにやらせるなよと思ってしまいました。

言語について説明するくだりは、「もし高校野球の女子マネージャーがドラッカーの『マネジメント』を読んだら」と何が違うのでしょうか?構造的にはまったく同じであり、小説の皮を被った自己啓発書です。