宇野維正「小沢健二の帰還」
著者である宇野惟正さんのデビュー作にあたる「1998年の宇多田ヒカル」は総論的な作品で、2作目の「くるりのこと」は黒子として聞き手にまわった作品でした。そして、3作目にあたる本作のテーマは小沢健二について。
著者の小沢健二への追っかけ振りは、小沢健二の寄稿が掲載された「POPEYE」などを発売日の朝に入手していることを知っていたので、小沢健二への思い入れが強くない私でも読まなくては、、、と期待ばかりが高まりました。
小沢健二のことは、王子様イメージを作り上げた「HEY!HEY!HEY!」きっかけで知り、H Jungle with tが紅白出演時に画面に出てきて楽しそうにしていた姿を覚えているものの、音源に接したのは「BUZZ」で紹介されていた「天使たちのシーン」きっかけです。
H Jungleの紅白が95年末で、「BUZZ」が00年5月号です。この間に小沢健二は表舞台から姿を消していたため、小沢健二を知ったものの、初期のアルバム3枚と2017年リリースのシングル2枚しか入手していません。
そんな私でも本書はグイグイ読むことができました。
これほどの作品を書き上げてしまったら、宇野維正さんは「日本の音楽」についてこれ以上のものを書くことは不可能なんじゃないかと思ってしまったし、音楽について本を纏めようとしている人に対しては「基準」ができてしまったので大変になるなぁと思ってしまったほどです。
音楽についての書き手が1人のアーティスト、1つのバンドに絞ってまとた著作の例をほとんど知りません。
インタビューの聞き手になるか、柴那典「ヒットの崩壊」、磯部涼「ルポ 川崎」、石井恵梨子「東北ライブハウス大作戦」、レジ―「夏フェス革命」などのように何らかの現象についての著作が大半です。
1人のアーティストについて書くことすら難題なのに、最も気まぐれで、最も難解に見えたアーティストに挑み、着地に成功したのが本書です。
日本の音楽について宇野さんが著作を刊行することは本作をもって終わりで構わないので、今までのレビューをまとめたものと海外の音楽についてのもが読めることを期待します。
これ以上のものを書くことは不可能と思った理由は、小沢健二の発信する情報の量や発信方法が、宇野さんの情報受信力と噛み合っていたからです。
たとえば、宇多田ヒカル。
「ROCKIN’ON JAPAN」17年9月号で渋谷陽一のインタビュー受けていたし、そもそも拠点が海外にあって、日本の芸能界と距離のあるところから人間活動に入った宇多田ヒカルと、日本の芸能界のど真ん中にいた小沢健二の空白は意味が違います。
また、人間期間中の情報は、結婚して妊娠して出産して子育てして、ということが断続的に本人から発表されたのみでした。
たとえば、安室奈美恵。
活動の全てをライブにおき、テレビにも出なければ雑誌のインタビューにも応じていません。引退を発表したことでNHKのインタビューに応じ、紅白歌合戦へ出演することとなりました。ライブではMCをしていないようで、言葉の人ではなく、純度の高すぎるパフォーマーなのだと感じました。
その他は、新曲を発表して雑誌のインタビューに応じ、フェスや歌番組に出演し、アルバムをリリースしてラジオのプロモーションをするというお決まりの流れを踏襲したミュージシャンやバンドばかりです。
ツイッターで発信するミュージシャンも増えていますが、ツイッターは文字数に制限があるためか、出来事への意見を言うことはあっても、誤読される危険性をはらんでいるためか、自分の考えの深いところまでを発表するツールとしては使われていません。
まとまって読めるものとして出版物がありますが、ミュージシャン本人が関わる出版物の多くは、インタビュー、歌詞集、小説、身辺雑記、スコアブックのどれかに分類されます。「くるりのこと」はインタビューで、「モア・ビート」「象牙の塔」は歌詞集で、「てんてんこまちが瞬間速」「祐介」「ふたご」は小説で、「苦汁100%」「100年後」「少年ジャンク」は身辺雑記です。後藤正文「YOROZU」は分類不能です。
そして、小沢健二。
「天使たちのシーン」きっかけで私が初期の3枚を入手後も、小沢健二は時折CDをリリースしていましたが、買わないまま過ぎていきました。再び小沢健二のことが気になりだしたのは、「さらば雑司ヶ谷」で小沢健二のエピソードが紹介されていたからです。
小説の中の小沢健二エピソードが雑誌「SIGHT」の書評対談などで紹介されたのち、小沢健二の文章を読むようになりました。
読むようになったといってもサイトに発表されたもの、新聞の全面広告、マガジンハウスの雑誌へ寄稿されたものしか読んでませんが、いずれも単行本になるだけの分量はないのに、新しい考え方を提示させる内容のものばかりでした。
身の回りで起きたことを入り口にしながら、思想とか文化についての話になっていくため、身辺雑記で括るとはみ出すものが大きすぎ、どのジャンルにおけばいいのかわからなくなります。
私と違って著者は、書店で見かけない雑誌に連載された思想について語る文章や、スマホ以前のネットの世界に投稿されたブログ、かつて連載していた雑誌への寄稿、突然のテレビ出演、自前の映画鑑賞会などをリアルタイムで視聴し、閲覧し、読み、体験しながら、小沢健二の輪郭を結んでいきます。
坪内祐三さんは「探訪記者 松崎天民」を書くにあたって、明治時代の空気感を掴むために早稲田大学図書館で明治に発行された雑誌のバックナンバーを数年分というまとまった量で読んだと書いてありました。
GoogleやYouTube、国会図書館、大宅文庫で検索して出てきたものを繋いだだけでは、「小沢健二の帰還」を書き上げることはできないはずです。そもそも現時点でもアクセスできる情報は、本書の半分にも満たないように感じます。
対象本人が語りすぎていたら実像を結ぶ必要が薄れるし、全く情報がなかったら書くための手掛かりにもなりません。あわせて、受け手が興味・関心を持続させることも必要になります。
「小沢健二の帰還」は、小沢健二が誰かに線を結んでもらうために張り巡らしたかのような伏線を、宇野維正さんが丁寧に回収していった一冊です。対象と書き手が噛み合った幸福な一冊です。
内容について私が補足したり、安易にまとめたり、孫引きする必要は感じませんでしたし、その余地も残っていませんでした。
小沢健二に本書へのコメントを求めて断られたとあったけれど、自分のことについて正確に書かれた作品に対してはコメントしないのが肯定の証であるように思う。とはいえ、小沢健二が肯定でも否定でもないコメントを寄せた平行世界を夢想します。
自分自身が伝えたいことを正確に文章にすることができる小沢健二を前にして、インタビューの機会を与えられた場合、何を聴けばいいかを考えてしまいます。「小沢健二の帰還」が発表され、余計にそう思うようになりました。
どんなことでも1つ質問できるとしたら、原盤権について聞きます。
「レコード会社は制作費を負担する代わりに原盤権を保持するのが通例だと思いますが、レコード会社とはどのように折り合いをつけているのでしょうか?」と。
小沢健二が「流動体について」をリリースするまでの空白の期間を、本書で書いてあるように、インディペンデントな立場で、自分自身でコントロールできたのは、(スタッフとの関係が堅牢でその可能性がなかったにせよ)安易なベストアルバムを勝手にリリースされることがなかったことも要因の一つであると思います。
PUNPEEが「MODERN TIMES」でネタにしていたように、原盤権を持っているレコード会社が決算前に年代順に並べただけのベストアルバムを勝手にリリースし、アーティストが怒るという事例は幾つもあります。宇多田ヒカル、スピッツ、ミイラズ、クリープハイプ、、、。安室奈美恵さんのベストアルバム収録曲の大半が新しく録音し直されているのも、原盤権を保持していなかったためのようですし。
レコード会社が制作費を負担する代わりに原盤権を保持するのが通例とした場合、小沢健二がレコーディングした際の費用は誰が負担しているのでしょうか。レコード会社が負担してた場合、どのようにして小沢健二自身で原盤権を保持できたのでしょうか。
もう1つ質問できるなら、下世話ですが、どうやってJay-zのところまで辿り着けたのかを聞きます。
お金をいくら持っていたって30才前後の若者がするりと潜り込めるほどアメリカの社交界は気楽なものではないはずです。
読み終わって、こんなことを考えました。