「ブレイディみかこ」が絶頂期に入っている
毎月7日に4冊の「文藝誌」が同時に発売されていることは、どのくらい認知されている事なのでしょうか。
毎月7日の朝日新聞には4誌が並んだ広告が掲載されるので、朝日新聞を購読されている方はご存知かもです。
そもそも「文藝誌」とは、芥川賞に絡む作家の作品が掲載される雑誌です。「芥川賞に絡む」とは、過去に芥川賞を受賞したりノミネートされたりといったことです。小説の世界には純文学と大衆小説という棲み分けが依然としてあり、伊坂幸太郎の作品は「PK」「超人」「人間らしく」の3作しか文藝誌に掲載されたことがありません。
現在刊行されている文藝誌は毎月刊行されている「新潮」「群像」「文学界」「すばる」の他には、季刊の「文藝」(河出書房新社)、「TRIPPER」(朝日新聞出版)が思い浮かびます。
小説を通読することはめっきり少なくなってしまっているけれど、各文藝誌の毎号のラインナップを確認することは毎月(季節ごと)の楽しみになっています。
印象としては、「新潮」(新潮社)が格式高いけれど固くて、「群像」(講談社)は表紙からしてポップだから読みやすくて、「文学界」は対談がメインの印象があり、「すばる」(集英社)は前野健太が連載しているけれどランクが落ちる印象。
2月7日発売の3月号についていうと、「新潮」が2017年の日記リレー特集で、「文学界」には松尾スズキさんの新作小説と宇野維正さんの寄稿が掲載されることを事前に知ったので久しぶりに買うことを決めていました。
「新潮」と「文學界」は買うけれど他の2誌も確認するかと思って「群像」HPで最新号目次を確認すると「新連載 ブレイディみかこ」とありました。
ブレイディみかこさんが、またまた新しい連載をはじめていたのです。
ブレイディみかこさんはイギリス在住の保育士でありながら、ライターとして活動もしている方です。
個人的には、定期購読していた「ちくま」(筑摩書房)で2017年12月号から連載がはじまり驚いた直後、年明けすぐの「波」(新潮社)で連載がはじまったことを知り慌てて定期購読を申し込んだばかりです。
昨年末に、『子どもたちの階級闘争──ブロークン・ブリテンの無料託児所から』(みすず書房)で第17回新潮ドキュメント賞を受賞し、エンジンかかりまくっているから編集者が声を掛けるのは当然なのだけれど、加速しすぎではないかと心配するほどの連載量です。
とはいえ、この連載量はいよいよ絶頂期に入ったことを告げています。ブロークン・ブリテンから日本の論壇の中心へ向かいだしました。
「波」(新潮社)「ぼくはイエローでホワイトで、ちょっとブルー」
「図書」(岩波書店)「女たちのテロル」
「ちくま」(筑摩書房)「ワイルドサイドをほっつき歩けーーハマータウンのおっさんたち」
「福音と世界」(新教出版社)「地のいと低きところにホサナ」
ブログで連載タイトルとともに紹介されていたのは、以上の5誌ですが、この他にも紙版の「ele-king」、朝日新聞でも年に3回程度ずつ原稿が掲載されていますし、Yahoo個人とかネットに載っている原稿もあります。
単著は、以下の8作品。ウィキペディアは最新作が漏れていました。
『花の命はノー・フューチャー』(碧天舎、2005/07/20)後に増補してちくま文庫(2017/6/10)
『アナキズム・イン・ザ・UK』(Pヴァイン、2013/10/31)
『ザ・レフト──UK左翼セレブ列伝』(Pヴァイン、2014/12/20)
『ヨーロッパ・コーリング──地べたからのポリティカル・レポート』(岩波書店、2016/06/23)
※紀伊國屋じんぶん大賞2017 第11位
『THIS IS JAPAN――英国保育士が見た日本』(太田出版、2016/08/17)
『子どもたちの階級闘争──ブロークン・ブリテンの無料託児所から』(みすず書房、2017/04/19)
※ 第17回 新潮ドキュメント賞
『いまモリッシーを聴くということ』(Pヴァイン)、2017/04/28)
『労働者階級の反乱 地べたから見た英国EU離脱』(光文社新書、2017/10)
そろそろ紀伊國屋じんぶん大賞2018が発表になるころです。「労働者階級の反乱」のベスト10入りは確実なはずです。
私がブレイディみかこさんを知ったのは、2014年ころ。知った時は「花の命はノー・フューチャー」と「アナキズム・イン・ザ・UK」しか著作が刊行されてなかったので、2014年のどっかで知ったはずです。
「アナキズム・イン・ザ・UK」を読み、単著がでたら買う作家のリスト入りしました。その後に読んだのは「ザ・レフト」と「いまモリッシーを聴くということ」くらいなので、批評とかはできませんが、今後の活躍を期待して、これまでの活動を纏めてみました。
感想を書く代わりに、印象に残っている記事のリンクを貼っておきます。
bunshun.jp3つめに『いまモリッシーを聴くということ』が紹介されています。
kangaeruhito.jp親交のある國分功一郎との対談。ブレイディみかこさんは自分の遍歴についても語っています。
津村記久子「ディス・イズ・ザ・デイ 最終節に向かう22人」(第5話~第9話)
第5話「篠村兄弟の恩寵」
奈良FC VS 伊勢志摩ユナイテッド
篠村靖(兄) & 篠村昭仁(弟)
兄弟で奈良FCに所属していた窓井のファンになったが、窓井の移籍とともに弟は伊勢志摩ユナイテッドのサポーターになり、兄はそのまま奈良FCのサポーターを続けた。
第6話「龍宮の友達」白馬FC VS 熱海龍宮クラブ
睦美(イラストレーター兼ビル清掃のパート) & 細田(ビル清掃のパートの同僚)
睦美は実家のチーム・白馬FCのサポーター。細田さんは亡き夫が熱海竜宮クラブのサポーターだった。
第7話「権現様の弟、旅に出る」遠野F VS 姫路FC
青木壮介 & 内藤親子(父と娘)
スタジアムに通っていることを会社バレしないように獅子頭を被って観戦する青木。ホーム初戦で頭を噛んでもらった内藤娘
第8話「また夜が明けるまで」ヴァーレ浜松 VS モルゲン土佐
遠藤忍 & 広瀬文子
1部に昇格するかが気になって気持ちとは裏腹に高知行きの飛行機に乗ってしまった遠藤。高知空港で途方に暮れる遠藤に声を掛けた広瀬。広瀬は一緒に観戦しようとしていた彼氏に仕事が入り、成り行きで遠藤と高知観光したあとにスタジアムへ。
第9話「おばあちゃんの好きな選手」松江04 VS 松戸アデランテロ
周治 & 周治の父方の祖母
数年前に周治の母方の祖母の葬儀に来ていた父方の祖母が松戸アデランテロのサポーターだと知る。母と父は離婚しており、祖母の存在が気になっていた周治は松江04が松戸アデランテロを迎える最終節に祖母を松江に招待する。
朝日新聞に週1で掲載されている津村記久子「ディス・イズ・ザ・デイ」。先週末に第50回が掲載され、第9話まで終わりました。サッカーの2部リーグ、計22チームの最終節を1試合ずつ描いてきた本作なので、残すはあと2話です。いよいよ最終回が近づいてきました。
新聞やネットで試合結果や優勝チームを知るだけの私にとって、シーズンを通してスタジアムや球場に通うことを毎年繰り返し、同じチームの応援を続けるのは違う世界のことでしたが、この連載を通して少しずつ身近になってきました。
優勝に絡まなければ変化のない1年でしょ?と思いきや、似たような結果に終わったとしても、同じシーズンが繰り返されているわけではないのです。
チームとしては3部リーグへの降格や1部リーグへの昇格がかかっていたり、贔屓選手が活躍したり怪我したり、新人が入って来たり移籍したり引退したりということがあり、一方でサポーター個人としても仕事や私生活で色々起きて何らかの変化が生じています。
「ディス・イズ・ザ・デイ」の素晴らしさは幾つもあり、選手への注目の仕方もその一つなのですが、それ以上に人間関係の距離の描き方がつくづく素晴らしい。津村記久子は前々から人間関係の描き方が素晴らしかったのですが、今回が一つの到達点です。
作品の構成として、対戦チームのサポーター同士が最終試合のスタジアムに居合わせるのが各話に共通する流れです。チーム同士は勝ち負けを決めなくてはいけないから「VS」の関係になり、サポーターも全体でみるとチームに連動して「VS」の関係であるように見えます。とはいえ、個人レベルになると、目的は反対だけれど、自分の応援するチーム以外のチームの情報も入ってくるため、優劣が最優先ではなく、互いを尊重する関係性になっています。寛容であるとはこういうことです。
スタジアムに居合わせる2人のつながりは、いとこ、兄と弟、母と息子、祖母と孫といった血縁関係もあれば、バイトの同僚、同じ大学の同級生という顔見知り、最終節のスタジアム周辺でたまたま会っただけの関係もあります。
いずれの関係も応援しているチームが異なるため、FacebookやTwitterのタイムライン上では生まれることのない関係です。スタジアムに通うことで生じた繋がりです。血縁関係がある場合も、それぞれの家や式で会っている時とは異なる一面、平野啓一郎が提唱するところの「分人」が顔を出して、いとこの抱える悩みや子どもの成長、祖母の自分への思いなどを知ることになります。
「選手への注目の仕方」というのは、サポーターが主人公の小説であるため、選手がどういう気持ちで最終節に臨んでいるかを語ることはなく、選手は試合するか雑誌にインタビューが載る以上の動きが描かれていない事です。スポーツ選手には、触れ合える距離まで、そう簡単には降りてきてほしくないのです。
小説の構成として最終節の試合を目指して話が進んでいるため、試合を迎えるまでのことに紙幅が割かれていて、試合終了と同時に各話が終わります。そのため「もう少しこの人たちの人生の続きが読みたいっ!」と毎回悶え、どの人も来年もスタジアムに通い、ここで新しい接点のできた2人は今後も交流が続くのかな?と想像したりします。
初見で読む時は各話の面白さに引っ張られて試合結果は二の次でしたが、シーズンの最終順位が決まる最終節であるから試合結果も重要だよなと気付いたけれど、切り抜きを捨てていないにせよ整理が悪いので散逸しています。
試合結果は単行本発行時に再読して確認しますが、単行本化の際は巻頭と巻末に最終節前後の順位表を掲載して欲しいものです。
子どもの本の国の豊かさ
昨年発行された小山健「お父さんクエスト」、山崎ナオコーラ「母ではなくて、親になる」、池谷裕二「パパは脳科学者」の3冊が育児本のジャンルでは今後長きに渡ってのベストです。これは確定です(ブック・オブ・ザ・イヤーで無視されてんのは何でだ?)。
「あかり」の産まれる前後から「育児本」が気になりだし、産まれて半年を過ぎた今は「絵本」が気になりだしました。
自分が親になったことで、育児本や絵本のシーンの充実ぶりに気づくようになりました。
私自身が親になった以外にも要因はあって、以下の2つが私の仮説です。
・作家(マンガ家、小説家、研究者)が親になった
・育児の悩みの解決方法や子育ての仕方の例を書籍に求めるようになった
前者について。
フィクションを主戦場にしている作家が、子どもが産まれたのを機に子どもについて書いてみたくなった/子どもについて書くことを依頼されたというケースがほとんどです。
小山健さんは連載に向けた打合せのなかで、妻が妊娠したから育児マンガを書いてみようかと提案し、傑作「お父さんクエスト」にまとまりました。
後者について。
子どもを持つ夫婦と交流をもつのがベストですし、手早いんですが、子どもの年齢が同じだからといって、親の年齢も同じであるとは限りません。第一子かそれ以降かの違いもあります。親の年齢を考慮に入れないにしても、その夫婦とベッタリになるのは面倒で、付かず離れずの関係を築く自信もないし、、、。何より地元の友だちが結婚してないし、子どももいないという、、、。
かつては子供がもっとたくさんいて、近所づきあいが頻繁にあって、勝手に情報が入って来たのかもしれないですが、アパート暮らしの現在は全くなので、育児本に救いを求めるようになりました。
私の場合は、以前から知っている作家が育児本を書くようになったので買いましたが、書店に行くと誰だよ?という著者のよくわからんふんわり系の本が山ほど溢れています。なかには私にしっくりくるのもあるんでしょうが、なかなか、、、。
「あかり」が7か月になり、何とかご飯食べてりゃ育つんじゃないのか?と楽観できてきて、育児本の決定版3冊が決まったことで、絵本に興味が移っています。
絵本というジャンルは、文庫本と同じくロングセラー作品(「だるまさん」シリーズ、「いないないばあ」、、、)も多いのですが、イラストレーターや小説家、広告が主戦場のデザイナーなど他のジャンルの作家が続々と絵本を製作するようになっています。カラーページのみなので、アートブックとしての趣もあるのでしょう。
「あかり」の産まれる前は、2014年に高野文子「しきぶとんさん かけぶとんさん まくらさん」、松本大洋「かないくん」が相次いで出版されたことを知った程度の接点(知識)しかありませんでした。
「あかり」が産まれてからは自分の趣味と子どものためという両輪に突き動かされて片っ端から手を出しています。
小沢健二「アイスクリームが溶ける前に」、伊坂幸太郎「クリスマスを探偵と」、大塚いちお「もののえほん」、「かたちのえほん」(3冊箱入り×2種類!)、鈴木康広「ぼくのにゃんた」、えぐちりか「パンのおうさま」、「パンのおうさまとシチューパン」、わたなべちなつ「ふしぎなにじ」、「かがみのサーカス」、谷川俊太郎×佐藤可士和「えじえじえじじえ」、田名網敬一「ハテナちゃんとふしぎのもり」、中村至男「どっとこ どうぶつえん」。
その他に小山健さんがTitterにあげた1ページマンガの余白に記した一言で紹介されていた「ゆびさしちゃん」、新聞広告が載っていた「ぱかっ!」も買いました。
買ってばかりではなく、住んでる自治体ではブックスタートということで絵本のプレゼントがあり、岸田衿子×堀内誠一「かにこちゃん」を選びました(もらったことをFacebookに載せたら堀内誠一さんの娘である堀内花子さんに届き、「いいね!」が来ました)。
今は、山崎ナオコーラ「かわいいおとうさん」、鈴木康広「りんごとけんだま」が気になっています。
絵本と一括りにしても、難易度についてはばらつきがあります。
「ぱかっ!」「ゆびさしちゃん」はそろそろわかってもらえそうで、「アイスクリームが溶ける前に」「クリスマスを探偵と」は大人向け。5段階に分けるとこんな感じでしょうか。
1 「ぱかっ!」「ゆびさしちゃん」
2 「もののえほん」「かたちのえほん」
3 「かがみのサーカス」「パンのおうさま」「かにこちゃん」「どっとこ どうぶつえん」
4 「ぼくのにゃんた」「ハテナちゃんとふしぎのもり」
5 「アイスクリームが溶ける前に」「クリスマスを探偵と」
熱心に色々買って読み聞かせても、7ヶ月の子どもは絵本すぐに舐めようとして慌てて止めて、もっと読んでとせがんではきません。
でも、まぁ、ゆっくりでいいんだ。
おとなになんか ならないで
ぼくのbaby ぼくのbaby秘密のままで輝いて
ぼくのbaby ぼくのbaby朝は素敵 いつも
夜は不思議 いつもそう時はすぐにきみを
つかまえてしまう いつだって曽我部恵一「おとなになんかならないで」
宇野維正「小沢健二の帰還」
著者である宇野惟正さんのデビュー作にあたる「1998年の宇多田ヒカル」は総論的な作品で、2作目の「くるりのこと」は黒子として聞き手にまわった作品でした。そして、3作目にあたる本作のテーマは小沢健二について。
著者の小沢健二への追っかけ振りは、小沢健二の寄稿が掲載された「POPEYE」などを発売日の朝に入手していることを知っていたので、小沢健二への思い入れが強くない私でも読まなくては、、、と期待ばかりが高まりました。
小沢健二のことは、王子様イメージを作り上げた「HEY!HEY!HEY!」きっかけで知り、H Jungle with tが紅白出演時に画面に出てきて楽しそうにしていた姿を覚えているものの、音源に接したのは「BUZZ」で紹介されていた「天使たちのシーン」きっかけです。
H Jungleの紅白が95年末で、「BUZZ」が00年5月号です。この間に小沢健二は表舞台から姿を消していたため、小沢健二を知ったものの、初期のアルバム3枚と2017年リリースのシングル2枚しか入手していません。
そんな私でも本書はグイグイ読むことができました。
これほどの作品を書き上げてしまったら、宇野維正さんは「日本の音楽」についてこれ以上のものを書くことは不可能なんじゃないかと思ってしまったし、音楽について本を纏めようとしている人に対しては「基準」ができてしまったので大変になるなぁと思ってしまったほどです。
音楽についての書き手が1人のアーティスト、1つのバンドに絞ってまとた著作の例をほとんど知りません。
インタビューの聞き手になるか、柴那典「ヒットの崩壊」、磯部涼「ルポ 川崎」、石井恵梨子「東北ライブハウス大作戦」、レジ―「夏フェス革命」などのように何らかの現象についての著作が大半です。
1人のアーティストについて書くことすら難題なのに、最も気まぐれで、最も難解に見えたアーティストに挑み、着地に成功したのが本書です。
日本の音楽について宇野さんが著作を刊行することは本作をもって終わりで構わないので、今までのレビューをまとめたものと海外の音楽についてのもが読めることを期待します。
これ以上のものを書くことは不可能と思った理由は、小沢健二の発信する情報の量や発信方法が、宇野さんの情報受信力と噛み合っていたからです。
たとえば、宇多田ヒカル。
「ROCKIN’ON JAPAN」17年9月号で渋谷陽一のインタビュー受けていたし、そもそも拠点が海外にあって、日本の芸能界と距離のあるところから人間活動に入った宇多田ヒカルと、日本の芸能界のど真ん中にいた小沢健二の空白は意味が違います。
また、人間期間中の情報は、結婚して妊娠して出産して子育てして、ということが断続的に本人から発表されたのみでした。
たとえば、安室奈美恵。
活動の全てをライブにおき、テレビにも出なければ雑誌のインタビューにも応じていません。引退を発表したことでNHKのインタビューに応じ、紅白歌合戦へ出演することとなりました。ライブではMCをしていないようで、言葉の人ではなく、純度の高すぎるパフォーマーなのだと感じました。
その他は、新曲を発表して雑誌のインタビューに応じ、フェスや歌番組に出演し、アルバムをリリースしてラジオのプロモーションをするというお決まりの流れを踏襲したミュージシャンやバンドばかりです。
ツイッターで発信するミュージシャンも増えていますが、ツイッターは文字数に制限があるためか、出来事への意見を言うことはあっても、誤読される危険性をはらんでいるためか、自分の考えの深いところまでを発表するツールとしては使われていません。
まとまって読めるものとして出版物がありますが、ミュージシャン本人が関わる出版物の多くは、インタビュー、歌詞集、小説、身辺雑記、スコアブックのどれかに分類されます。「くるりのこと」はインタビューで、「モア・ビート」「象牙の塔」は歌詞集で、「てんてんこまちが瞬間速」「祐介」「ふたご」は小説で、「苦汁100%」「100年後」「少年ジャンク」は身辺雑記です。後藤正文「YOROZU」は分類不能です。
そして、小沢健二。
「天使たちのシーン」きっかけで私が初期の3枚を入手後も、小沢健二は時折CDをリリースしていましたが、買わないまま過ぎていきました。再び小沢健二のことが気になりだしたのは、「さらば雑司ヶ谷」で小沢健二のエピソードが紹介されていたからです。
小説の中の小沢健二エピソードが雑誌「SIGHT」の書評対談などで紹介されたのち、小沢健二の文章を読むようになりました。
読むようになったといってもサイトに発表されたもの、新聞の全面広告、マガジンハウスの雑誌へ寄稿されたものしか読んでませんが、いずれも単行本になるだけの分量はないのに、新しい考え方を提示させる内容のものばかりでした。
身の回りで起きたことを入り口にしながら、思想とか文化についての話になっていくため、身辺雑記で括るとはみ出すものが大きすぎ、どのジャンルにおけばいいのかわからなくなります。
私と違って著者は、書店で見かけない雑誌に連載された思想について語る文章や、スマホ以前のネットの世界に投稿されたブログ、かつて連載していた雑誌への寄稿、突然のテレビ出演、自前の映画鑑賞会などをリアルタイムで視聴し、閲覧し、読み、体験しながら、小沢健二の輪郭を結んでいきます。
坪内祐三さんは「探訪記者 松崎天民」を書くにあたって、明治時代の空気感を掴むために早稲田大学図書館で明治に発行された雑誌のバックナンバーを数年分というまとまった量で読んだと書いてありました。
GoogleやYouTube、国会図書館、大宅文庫で検索して出てきたものを繋いだだけでは、「小沢健二の帰還」を書き上げることはできないはずです。そもそも現時点でもアクセスできる情報は、本書の半分にも満たないように感じます。
対象本人が語りすぎていたら実像を結ぶ必要が薄れるし、全く情報がなかったら書くための手掛かりにもなりません。あわせて、受け手が興味・関心を持続させることも必要になります。
「小沢健二の帰還」は、小沢健二が誰かに線を結んでもらうために張り巡らしたかのような伏線を、宇野維正さんが丁寧に回収していった一冊です。対象と書き手が噛み合った幸福な一冊です。
内容について私が補足したり、安易にまとめたり、孫引きする必要は感じませんでしたし、その余地も残っていませんでした。
小沢健二に本書へのコメントを求めて断られたとあったけれど、自分のことについて正確に書かれた作品に対してはコメントしないのが肯定の証であるように思う。とはいえ、小沢健二が肯定でも否定でもないコメントを寄せた平行世界を夢想します。
自分自身が伝えたいことを正確に文章にすることができる小沢健二を前にして、インタビューの機会を与えられた場合、何を聴けばいいかを考えてしまいます。「小沢健二の帰還」が発表され、余計にそう思うようになりました。
どんなことでも1つ質問できるとしたら、原盤権について聞きます。
「レコード会社は制作費を負担する代わりに原盤権を保持するのが通例だと思いますが、レコード会社とはどのように折り合いをつけているのでしょうか?」と。
小沢健二が「流動体について」をリリースするまでの空白の期間を、本書で書いてあるように、インディペンデントな立場で、自分自身でコントロールできたのは、(スタッフとの関係が堅牢でその可能性がなかったにせよ)安易なベストアルバムを勝手にリリースされることがなかったことも要因の一つであると思います。
PUNPEEが「MODERN TIMES」でネタにしていたように、原盤権を持っているレコード会社が決算前に年代順に並べただけのベストアルバムを勝手にリリースし、アーティストが怒るという事例は幾つもあります。宇多田ヒカル、スピッツ、ミイラズ、クリープハイプ、、、。安室奈美恵さんのベストアルバム収録曲の大半が新しく録音し直されているのも、原盤権を保持していなかったためのようですし。
レコード会社が制作費を負担する代わりに原盤権を保持するのが通例とした場合、小沢健二がレコーディングした際の費用は誰が負担しているのでしょうか。レコード会社が負担してた場合、どのようにして小沢健二自身で原盤権を保持できたのでしょうか。
もう1つ質問できるなら、下世話ですが、どうやってJay-zのところまで辿り着けたのかを聞きます。
お金をいくら持っていたって30才前後の若者がするりと潜り込めるほどアメリカの社交界は気楽なものではないはずです。
読み終わって、こんなことを考えました。
松本人志とZeebra
松本人志は、「水曜日のダウンタウン」が暴れだすと及び腰になります。
フレーズの二度使いをしてこなかった松本人志にとって珍しく、「BPOに目をつけられている」「この番組の悪いとこ出た」を繰り返し使用しています。
松本人志のコメントの打率は10割と信じていたし、常に驚く角度からのコメントが飛び出すと期待していたけれど、「BPO」というフレーズが出るたびに少しがっかりして、一歩退いた立場からコメントするようになったのかと落胆します。
本当にBPOからの介入に怯えているならスタッフに伝えるだろうけれど、そんなことはしていないだろうから、ウケるフレーズとして使っていると思われ、この見方が落胆を加速させもします、、、。
「水曜日のダウンタウン」という最前線の番組に出演しながらも、松本人志の立ち位置は一歩下がったところにあります。
同じような立ち位置にいるのが、Zeebraです。
かつて、adidasばっかり着ていることを茶化した爆笑問題を呼びつけ、フロウを真似されたと言って降谷建志を「公開処刑」するなど、新しい才能に対してイラついていた2人でしたが、松本人志は出演番組に対して手綱を引くコメントをし、ジブラは般若が出てくると涙ぐんでいます。
2人ともプレーヤーではなく、プロデューサーになったのです。
松本人志は、大喜利の「IPPON グランプリ」、笑わせあう「ドキュメンタル」という場を作り、ジブラは地上波のテレビ番組「フリースタイルダンジョン」、ラジオ局「WREP」という場を作りました。
「ドキュメンタル」でモニターを見ている時の松本人志と「フリースタイル・ダンジ4ョン」で対戦を見ているジブラは同じ表情をしています。
松本人志とジブラの肩書について、これまで通り「お笑い芸人」と「ラッパー」として捉えると活動との齟齬が生じるので、「プロデューサー」として捉えるようになりました。
松本人志の最近の活動は、「ドキュメンタル」「IPPONグランプリ」をはじめとして一歩下がった立ち位置のものばかりです。
「クレイジー・ジャーニー」のMCはタブーに挑んできた実績を買われての起用でしょうが、実際は1人でJRの切符も買えないし、一人旅もできないほどでクレイジーとは最も遠い場所にいます。
「ワイドナショー」も安倍総理が出演して喜んでいて、政治家になりたがっていると浜田雅功を揶揄していますが、松本の方が近いのではないかと察します。選挙にはでなくとも、何かの審議会委員の委嘱が来ればすぐに引き受けそうにも思う。
「ガキの使いやあらへんで」の「笑ってはいけない」シリーズなどは、受け身の立場での出演です。お笑い番組としては優れているけれど、それは筋肉や老化などで笑われることを良しとしたわけであり、松本自身が笑わせには行っていません。
「ダウンタウンDX」や「水曜日のダウンタウン」でのコメントは手癖でやっているように見えます。
「ガキの使い」のフリートークは面白いけれど、漫才やコントとしての面白さではありません。3分、4分の緊張感ではなく、30分与えられていることによる「余裕」から来る面白さです。
ジブラときたら、DJ DIRTYKRATESを名乗り「フリースタイル・ダンジョン」から派生した「Dungeon Monsters」のバックDJを務める始末。RAU DEFなどにゲスト参加することはあれど、単独名義の音源は13年リリースが最後で、「Grateful Days」の盛り上がりを取り戻せてはいません。
M-1グランプリやキングオブコント、ドキュメンタルやフリースタイルダンジョンンの出場者には、売れてやろう、一旗揚げてやろうという野心があります。その野心が大会や番組に緊張感を生み、視聴者を引き付けています。
今の松本人志とジブラは「余裕」を手にいれており、そこに「野心」はありません。勝ちしか許されない状況下でわざわざ負けに行く理由もないし、負けるくらいならプロデューサーでいる方を選ぶのは当然の流れです。
寿命が長くなってきているお笑い芸人やラッパーにとってのロールモデルになっているけれど、過去の威光を引きずっているだけとも言えます。
反骨の象徴であった松本人志とジブラが権威になってしまい、退屈に映ります。
引退して、その分野のプロデューサーになるのは、運動系の流れです。スポーツなら監督になるし、格闘家なら猪木や前田日明、高田延彦のように大会を主催する側にまわりだします。
一方で、小説家や映画監督、ミュージシャンは現役でい続けることが可能です。
本来であれば、お笑いとラップは現役であり続けることが可能であるはずなのに、松本人志とジブラがプロデューサーに寄っていったのが残念でなりません。
一方で、松本人志とジブラが新しい場を作り、若手がフックアップされ、シーンが面白くなってるのは事実であり、、、。現役とプロデューサーのどちらになって欲しいのか折り合いをつけることが出来ていません。
とはいえ、2人の立ち位置が退屈なのはつまんらんのです。
ジブラはソロの人になっているから期待はないけれど、松本人志については浜田雅功が発火させるんじゃないかという期待を捨てきれずにいます。
M-1グランプリ2017
M―1グランプリ2017で私が良いと思ったコンビ
1位 天竺鼠(敗者復活戦)
2位 ジャルジャル
3位 ミキ(1本目/漢字)
4位 和牛(1本目/結婚式)
審査員を務めた博多大吉さんが「ラジオクラウド」で語っていた審査の基準や裏話が興味深かったです。特に興味深かったのは以下の3点。
① ツカミ(最初の笑い)とオチ(最後の笑い)を重視にしている
② エントリー制限が10年から15年に拡大されたので差が付きにくくなった
③ ジャルジャルのネタはわからなかった
①について。以前「漫才の時の立ち方を教わって、今も実践している」とも言っていたから、博多大吉は、中川家や銀シャリのような基本に忠実なタイプの漫才師であることがわかりました(Aマッソは立ち方を教わってほしい)。
②について。新卒22歳で入社したら10年経っても32歳で若手に扱われますが、15年経って37歳になると中堅扱いです。場数も踏んでるだろうし、バリエーションも増えるでしょう。平均点が高くなったなかで、調子か客層か審査員か何かと噛み合わなかったマジカルラブリーやカミナリが点を落とすのは仕方ないことです。
③について。ジャルジャルのネタ終わりで博多大吉は「もう一展開あると思っていた」と言っていました。大会時は「あのネタからもう一個要求するの?」と思っていましたが、「自分の予想した展開にならなかった」という意味であったようです。「良い子、良い子」で終わるのではなく、「ピンポンパン」をもう一回変えてオチにする、と思っていたと。自分の予想と違っていたため「わからなかった」と結論づけていました。
番組本番での決まった時間のなかで発する短いコメントで招いた誤解を解いたり、審査の基準を明らかにする意味で、聴きごたえのある内容でした。もう一展開のとこで博多大吉を嫌いになりかけたけど、基準をもって審査に臨んでいることがわかりました。
「金髪豚野郎」が何で審査員になっているかの理由が見つけられないなかで、博多大吉は、新しいものに追い付けていないのかという不安はあれど、審査の公平性を担保する存在になっているので貴重な人材です。
各コンビについて語ったあとで、ネタ順に絡んで、笑いの神のいたずらめいたことについて語っていました。
とろサーモンと和牛は両方とも旅館のネタを持っていること、ネタ被りしていることが吉本の社員のなかで話題になっていた。和牛については結婚式のネタが最高だったが、出番の早いとろサーモンが最初に旅館ネタをやったから、決勝用で考えていた結婚式を出さざるを得なかったのではないか。結婚式ネタが決勝だったら和牛が優勝していたのではないか。
博多大吉の審査基準は博多大吉の審査基準として興味深く思いながらも、お笑いの形態として「漫才」と「コント」がある以上、漫才をするのなら漫才でしかできないことをしているネタが好きです。
横山やすしがダウンタウンの漫才について「チンピラの立ち話」と評したようですが、的確な評価だと思います。極論言うと、私が漫才に求めるのは「仲の良い2人の立ち話」です。
コントっぽくなるのではなく、2人の立ち話で終始する、そんなネタが見たいのです。立ち話で終わったネタのなかで、天竺鼠の数を数えているところ、ミキの漢字を紙に書かず伝えようとするところ、ジャルジャルのピンポンパンポーンというチャイムで遊んでいるところがハイライトでした。
立ち話じゃないネタとして、「自己紹介→発案→演じる→辞めて終わり」という流れに乗った漫才が多くありました。異性コンビ2人が宿泊で同室になった、コンパ、旅館、、、と設定は色々でしたが、コントに寄りすぎているネタが多かったように思います。
和牛の結婚式のネタについては、最初に新婦とウェディング・プランナーだった設定が、途中から新婦と新郎になる設定が新しく映ったようだけれど「予行演習→本番」という流れはバナナマンのコントにありました。
評価の低かったマヂカルラブリーはコントに寄りすぎてたからであって、コントとして作ればドランクドラゴンぽくなったのかなと思います。
立ち話じゃないネタとしては、いずれも敗者復活戦ですが、三四郎とハライチが良かったです。
ハライチの異星人ネタは、演じているけれど、漫才でしかできないことをやっていて楽しかったし、三四郎は、テレビで売れっ子になった小宮を茶化すという今でこその設定が楽しかったです。
敗者復活であがってきたスーパーマラドーナについては、合コンに行き馴れてなさそうなのがコンパの話を持ち出し、なおかつ「こんなのが来てぇ~」と女性を笑いの対象にしようとするのが受け付けなかった。一番腹立つのは、天竺鼠を超えて勝ち上がってきてこの出来かよ?というところ。
優勝した「とろサーモン」を最初に認識したのは、めちゃイケの「笑わず嫌い王決定戦」。他にどのコンビが出ていたのかは思い出せないけれど、とろサーモンのことは覚えています。その後、ラッパーになったりナレーターになったり「火花」に出たりして今に至っていますが、卑屈なまま売れていってほしい。
「めちゃイケ」で見た当時は、村田が話をし久保田が茶化すが、それを無視したりあしらいながら話を続けるネタでした。現在の状況に合わせたネタになっていて良かったですが、かつてのパターンに沿わせたネタも見てみたくなります。
博多大吉の決勝での審査基準は「ツカミ(最初の笑い)の速さ」だったそうです。ツカミ基準なら、スタンドマイクを持って出てきた天竺鼠・川原がぶっちぎりの優勝です。
天竺鼠は、マイク持ってきたところからはじまって谷折線、数を数える、来世の31歳、右肩メイン、「まぁこうやって夫婦でやってますとね」、「谷折ろうとすな!」、スタンドマイクを持ち帰ろうとして終わりました。私の腹が爆発しました。
PUNPEE「Modern Times」感想編
PUNPEEは今まで行ってきた数々の人たちとのコラボレーションによりプロップスを最大限に高め、お茶の間とシーンを繋ぐ存在になりつつあります。
テレビのテーマソングを作り(「水曜日のダウンタウン」)、CMに楽曲提供し(「レッドブル」「ファンタ」)、FNS歌謡祭に加山雄三と出演しても「セルアウトした」という声が出ずに喝采をもって迎えられるのは、提供や出演した楽曲の完成度がいずれも高いだけでなく、ECDのドネーションTシャツを着るなどお茶の間に染まらず、シーンと地続きである態度や姿勢を崩さないためです。
コラボレーションによる単発の曲以外の、自分名義の作品では限定盤(「Movie On Sunday」やフジロック'17で販売したMix CDやメテオとのアナログ等)ばかり出していたPUNPEEがついに個人名義で販売枚数を限定しない作品をリリースしました。
音楽誌「MUSICA」17年1月号に掲載された16年のヒップホップシーンについての有泉智子さんとの対談のなかで、高木"JET"晋一郎さんが、PUNPEEについて「アンダーグラウンド性もあるんだけど、根本的に持ってるポップ性があるから強い」と話していました。
高木さんはPUNPEEのことを「アンダーグラウンドとポップ性の両立」と評していますが、「Modern Times」という作品は真逆の価値観が同居する多面的な作品であると感じました。
シーンのことはKOHHやtofubeats、5lackに任せて自由にやらせてもらうわといいながら、HIP HOPの枠を広げていこうという気概がひしひしと伝わってきます。
また、PUNPEEが親しんできた映画やアメリカンコミックの世界を下敷きにした、とてもパーソナルでな作品でありながら、箱庭に陥らず2057年から太平洋戦争まで100年以上の時間を自由に行き来する広がりや奥行きのある作品になっています。
「ガーディアンズ・オブ・ギャラクシー」を監督したジェームズ・ガンもそうだけど、身内をガンガン巻き込んで、自分の庭の中で大きい作品を作る感じがすごく好きです。
インタビューでも言っているとおりの作品になっています。
本作ではPUNEPEEが自分の趣味で覆いつつも、作品至上主義を貫いています。そのことは、「詩/詞」について通常なら「Lyric」あるいは「Words」と表示されるところですが、本作では「Script(脚本)」となっていることからも明らかです。
映画好きを公言しているPUNPEEならではとも言えますが、「Script」としたことで「アルバムとしての統一感」が他の作品とは群を抜いています。
「構成、ゲスト、歌詞」がアルバムとしての統一感(あるいはトータル・デザイン)のために機能しています。
< 構成について >
本作は40年後のPUNPEEと思われる人物が本作について語りだす「2057」からはじまり、「Interval」を挟み、「Oldies」の曲終わりでもう一度出てきて、映画のエンドロールにあたる「Hero」で閉じるという構成です。
時間軸では、「2057」年の未来からはじまり、過去に思いを馳せる「Hero」で締める構成になっています。
< ゲストについて >
リリース前にはトラックリストのみが公開され、ゲスト参加の面々は伏せられていました。
「feat.誰々」と曲に添えられていないのは、参加した面々も「Modern Times」という作品のなかでは「登場人物の一人」に過ぎないということです。PSGの復活(あるいは再結集)だってプロモーション的にはもっと声高にアナウンスされるべきなんですが、楽曲が第一であるため、ブックレットを見て「揃ってるじゃん」と気づく程度の素っ気なさです。
< 歌詞について >
「パンピー=一般人」という匿名性の高い名前を名乗るPUNPEEは、ヒップホップ界隈では異色の存在です。呂布でカルマとかR指定とか般若とか強そうな名前を名乗りがちのなかで、一般人を自称する。名乗りだした当初は一般人に近かったのでしょうが、存在が際立っています。
一般にバンドやシンガー、ラッパーの曲における歌詞の内容は作詞者やボーカリストの実体験と錯覚してしまうことが多いですが、本作においては「Script」となっているため、曲の主人公を作者であるPUNPEEとイコールで結びつけることは安直です。本人も語るように別人格のキャラとしてのPUNPEEも登場していることに注意しなくてはいけません。
PUNPEEと名乗っているためか自分の強さを誇ることはありません。
「板橋区のダメ兄貴」という自称そのままの内容がそろそろ頑張ろうという「Happy Meal」やPUNPEEという名前を気に入っているという「P.U.N.P」といった曲になっていますが、それすらも「板橋区のダメ兄貴」を演じるPUNPEEなのです。PUNPEEがダメ兄貴なら、世の中はダメ兄貴ばかりです。
繰り返しになりますが、この作品はどの角度から見るのかによって違った印象を与える作品です。
「水曜日のダウンタウン」と兄弟のように、膨大な引用や隠しトラックやイースターエッグを探すのか、PSGやISSUGI、RAU DEF、A$AP Fergなど最前線の入り口とするのか、時間を自在に行き来する作詞家の誕生を祝うのか。少なくとも「今年のフジロックのベストアクトだったよねぇ~」と確認するための作品ではありません。CDJに呼びながら誌面では全く無視するロキノンはおいといて、「MUSICA」に載った4本ののレビュー、何だありゃ。
今年の、というかPUNPEEが二作目をだすまでは当分この作品がベストです。