綿矢りさ「インストール」
綿矢りさ「インストール」を12年ぶりに再読しました。第38回文藝賞発表号の「文藝」で読み、2001年11月の単行本刊行時に読み、2005年10月の文庫刊行時に読んだので、12年ぶり4回目です。
自意識が膨らんで破裂した女子高生が学校をサボることになり、自室の断捨離ついでにパソコンを粗大ごみに出すところから物語がはじまります。そのパソコンは、Eメールでやりとりするため祖父に買い与えられたものの配線の接続ができず、一度もやりとりしないままになっていたものです。マンションの粗大ごみ置き場でたまたま会った小学生がインストールしなおし、エロチャットをはじめることになります。
2017年に綿矢りさ「インストール」を再読すると、2001年当時のネット環境に驚きます。
12年前はパソコンに詳しい小学生が珍しかったのですが、小学生がスマホでネットにアクセスすることが普通になった現在からすると隔世の感があります。
読み進めるには、Eメールのためにパソコンを買う、読んでる小説は「ハリー・ポッター」で宇多田ヒカルがコロンビア大学に進学という2001年の状況やトピックを受け入れなくてはいけません。LINEが覇権を獲り、Eメールを使うことがない現代のティーンたちは読みきることができるのでしょうか。
主人公の女子高生と小学生の男の子が共謀し、風俗嬢の代理でエロチャットをはじめます。2001年のエロチャットは文字だけのやり取りだったのでなりすますことができていますが、スマホやパソコンにカメラが付き、女子大生やOL、主婦が裸体や自慰行為を求められる2017年なら通用しない設定です。
2017年から振り返れば、文字だけで満足している2001年の男たちの欲望はおとなしいと思ってしまいます。2001年がおとなしいのか、2017年が過激すぎるのかはわかりません。
2001年の発表当時は、女子高生がエロチャットを扱った小説を書いたということが、作者本人のかわいさもあり、大きく注目を集めました。2作目の『蹴りたい背中』で金原ひとみ『蛇にピアス』と芥川賞を同時受賞し、その注目はピークを迎えます。
発表から15年以上経って牧歌的に感じるデジタル・ツールの古さに足を引っ張られる面はありますが、「他者」との居心地悪い関係を描いている箇所に綿矢りさの才能が発揮されています。
主人公と小学生の関係は師弟であり、共犯者でもある関係です。
しかし、主人公と母親、小学生と小学生の母親(継母)、主人公と小学生の母親、主人公の母親と小学生の母親という関係はいずれの場合も、どちらか(あるいは双方)が居心地悪く思っています。
「我々がコミュニケートしなければならないのは、きっとどこかに居るであろう自分のことをわかってくれる素敵な貴方ではなく、目の前に居るひとつも話が通じない最悪のその人なのである。」と書いたのは渋谷陽一ですが、このことを書いてある小説です。未成年にとってエロチャットの相手が素敵な貴方であるわけもなく、「最悪のその人」である両親とコミュニケートしなくてはいけないのです。
学校を休んで取り組んでいたエロチャットはそれぞれの両親にバレたことと風俗嬢の引退をもって終わることになり、物語も終わります。
数本の長い毛がからまった綿ぼこりが点在しているその乾いたコンクリートの上に座ったら、その尻の感触でゴミ捨て場で呆然と座り込んでいた時のことを思い出した。私は今もあの時と同じように呆然としている。何が変わった?
という主人公の独白が終盤にありますが、エロチャットで変わるほど人生は甘くないし、エロチャットきっかけで目覚める何かがないことも教えてくれます。
やっぱり、不器用は罪なのだ。同情という言葉で彼らに甘えて、安心してはいけないと思った。
併録されている短編「You can keep it」は、「インストール」「蹴りたい背中」の次に発表された作品です。綿矢りさは「蹴りたい背中」以降しばらくの間、作品を発表してませんでしたが、「インストール」の文庫化に収録という形でいきなり発表したので非常に驚きました。
「You can keep it.」は2017年の現在にも通じる居心地の悪さが描いてあります。
これ以降、私は綿矢りさ作品を読んでないのですが、今も居心地悪い小説を書いているんだろうか?「勝手にふるえてろ」「かわいそうだね?」「憤死」「大地のゲーム」とタイトルは私好みのキレがあるので読んでみよう。
「はあちゅう」とは何者か?
「はあちゅう」さんが肩書きを「作家」にしようとしたら炎上しました。
「はあちゅうさん、吉田豪さんに認識されていて凄い!」というのが私の第一印象でしたが、いろんな人がいろんなコメントをし、あれよという間に炎上したので驚きました。
「作家・はあちゅう」に一言ある人は、「はあちゅう」に対して「何をしている人か分からない」「収入源がわからない」「ネット界隈で小金を稼いでいる」というイメージを持っているんだろうと推測します。
あるいは、「作家」を名乗りたいけど、おこがましいから、、、と躊躇している人を軽々飛び越えて行ったことへの嫉妬も含まれていそうです。
『半径5メートルの野望 完全版』『言葉を使いこなして人生を変える』の2冊を買い、読みました。けれど、結局「はあちゅう」さんが何者であるかはわかりませんでした。
両作とも日々の生活で心がけていることなどが書かれており、怠惰な自分には眩しい内容でした。
「はあちゅう」さんは、ネットで課金制のnoteを公開したり、サロン開いたり、スケジュールを公開したり、手帳作ったり、小説書いたり、多方面な活躍が支持されています。小説を除いた著作については、「はあちゅう」さんの活動を支持する人への「副読本」と認識すればいいのではないでしょうか?
著者のことを知らずとも、タイトルに興味があれば手に取ります。一方で、著者のことを認識しているから手に取ることもあります。
世に出ている本の多くは本を読むだけで完結するけれど、「はあちゅう」さんの著作に関して言えば、読み終ると「はあちゅう」さんはどういう人であるかが分からなくなり、ネットで「はあちゅう」さんの情報を探しています。探しても課金を強いてくるサイトにつきあたるから、ジレンマが生じます。恋かもしれません。
古い価値観と対決していかなければいけないんだから、「はあちゅう」さんは大変だろうなと思います。
でも結局は、
というコメントに同意します。正しい反応は「作家さんだったんですか。すごいですね」だと思う。
— ホームラン (@muteit) 2017年3月28日
石持浅海「殺し屋、やってます。」
余計なことを考えると、行動が制約される。行動の制約は、失敗に直結する。プロとして、絶対に避けなければならない。
殺し屋を扱った小説を読むのが好きです。好きとはいえ、伊坂幸太郎「グラスホッパー」「マリアビートル」、曽根圭介「殺し屋.com」しか読んだことありません。
殺し屋は存在している/存在していないが曖昧であるため、ファンタジー小説としてとらえています。ファンタジーという前提がありつつも、信ぴょう性を確保するために細部には凝っているので引き込まれてしまいます。
殺し屋小説を読むとき、以下の項目が気になります。
1 どのような経緯で殺し屋になったのか
2 どのように依頼するのか/されるのか
3 どのような手口で実行するのか
本書「殺し屋、やってます。」の場合「1」は省略されていて、「2」についてが、この作品の面白さです。
依頼するには前金、成功報酬の合計として650万円かかります。
東証一部上場企業の社員の平均年収を基準としており、年収分を払えるか?というハードルを設定することで、安易な依頼をふるいにかけています。
依頼にあたっては、依頼人と殺し屋との間の連絡係を2人挟むことによって、殺し屋に接する連絡係が依頼人の情報を持つことがなくなり、依頼人に接する連絡係が殺し屋の情報を持つこともなくなるというたシステムが採用されています。
「依頼者→仲介2(伊勢殿)→仲介1(塚原:普段は公務員)→殺し屋(富澤:普段は経営コンサルタント)」という流れで依頼が伝わります。
実際の内容についてですが、以下の7編から構成される連作短編集です。
黒い水筒の女
紙おむつを買う男
同伴者
優柔不断な依頼人
吸血鬼が狙っている
標的はどっち?
狙われた殺し屋
いずれも30ページ程度で、サクサク読めてしまいます。内容は章のタイトルどおりです。
「内容が薄い」「殺し屋の腕が良すぎる」「会話が不自然」などの感想を見かけましたが、見当外れとしか言えません。
そもそも「殺し屋、やってます。」というタイトルの小説に重厚感を期待するのが間違っています。
「絆回廊」「狼花」「毒猿」「無間人間」「炎蛹」、、、、というタイトルなら重厚感を求めてもしかたないですが、そのようなタイトルではありません。
このような感想を抱く人は恐らく電子書籍で読んでるのでしょう。装丁から内容を判断することができていないのです。
ハードカバーで斤量の重い紙を使っていれば重厚感を求めても仕方ないですが、本書はソフトカバーです。
「会話」については、「殺し屋小説=ファンタジー小説」という前提が理解されていないので、会話が不自然に思われたとすれば残念なことです。そもそも「自然な会話」なんてあるのか?と思いつつ、会話については小説世界の雰囲気とあっているかどうかです。
私は気になりませんでした!
いずれにしろ、殺し屋・富澤、仲介役1・塚原、仲介役2・伊勢殿、富澤の恋人・雪奈とキャラが立っているから、すぐにドラマになると思います。
その際、歯科クリニックの院長でもある「伊勢殿」役はリリー・フランキーか吉田鋼太郎でお願いします。
表紙カバーに描かれている缶ビールとビーフジャーキーの袋は、依頼を受けた男が新しい仕事の前に行う儀式に由来するんですが、その儀式だってカッコつけてると読めるだろうけど、そこを楽しめるかどうかが重要です。
表紙カバー、タイトルに魅かれて購入したので、千海博美さんの名前を覚えておくことにします。
殺し屋小説の例として挙げた曽根圭介「殺し屋.com」について、13年9月20日付でAmazonに投稿しました。
「カジノ王」名義で書いた短い感想をサルベージついでに引用しておきます。
「殺し屋稼業の現在」
現代の「殺し屋」はタイトル通り、「殺し屋.com」というサイトにアクセスして仕事を得ています。キャッチコピーは「殺りたい仕事がきっと見つかる」。
サイトにアクセスし、仕事一覧から入札して仕事を得ます。スタンガンや銃なども同じサイトから入手できる仕組みです。
本書では、「殺し屋を副業とする刑事(第1話)」「行動範囲内にライバルがいて競り負けている昼はヘルパーの殺し屋(第2話)」「依頼に失敗して組織と随意契約を結び、不履行の殺し屋を殺す(第3話)」などの計4話がおさめられています。
つじつまが整っているから妙な説得力があり、現実味も帯びています。
「近ごろの若いヤツはバイト感覚でこの業界に入ってくる。掟や忠義なんて時代はおわったのさ」というセリフ。どの業界も同じなのかなと思った次第です。
池上彰、竹内政明『書く力 私たちはこうして文章を磨いた』
『情報を活かす力』『学び続ける力』『伝える力』『見通す力』など「○○力」というタイトルの書籍を出版し続ける池上彰さん(「○○力」でいうと齋藤孝先生が最も多いですよね)。
読売新聞の一面コラム「編集手帳」を2001年から担当されている竹内政明さん。
このお二方による、文章の書き方指南書が本書『書く力』です。お互いが文章を書くときに気をつけていることを披露しあう形式ではありません。
四章から構成されており、章によっては対等に自分が気に入っている文章を紹介しあったりもしていますが、大半は池上さんが聴き手となり、竹内さんが過去に書いた文章を取り上げながら、心がけていることや文章上の工夫を深掘りしていく内容になっています。
第一章 構成の秘密
第二章 本当に伝わる「表現」とは
第三章 名文でリズムを学ぶ
第四章 悪文退治
途中途中で他の方の書いた文章術の書籍との内容のリンクがありました。私は他の書籍の内容とリンクすると、書いてある内容が補強されたように捉えています。異口同音に言われているということは、間違いないんだ、と。保険のような感じです。
池上
「記事の部品になりそうなものを」をとにかく挙げていく。
(中略)
このようにして、「書くべき要素」を、まず書き出してしまう。全体の構成は、自分で書きだしたその要素を眺めたり、何度も読み返したりしながら、全体の流れが通るようにしていくというわけです。
という池上さんの発言。
唐木元さんの『新しい文章力の教室 苦手を得意に変えるナタリー式トレーニング』にも同様のことが書いてありました。
続いても池上さんの発言です。
池上
「それは無茶振りだ」と思われるかもしれませんが、私は、「なんでもいいから書いてみる」ということをおすすめしたいですね。そのテーマが世間的に意義があるのかどうかも、内容としてまとまっているかどうかも、とりあえず置いておき、パソコンの電源を入れて、文字を置いてみる。
そうすることで、自分の考えがまとまってくるんですね。実際に文字にすると、自分でそれを客観的に「読む」ことができるようになる。つまり、自分と自分で対話ができるようになるんです。
「作家・はあちゅう」さんの『言葉を使いこなして人生を変える』にも同様のことが書いてありました。
私、先輩作家さんの言っていた、
「たまにいい文章を書く人ではなく、とにかく、毎日書き続けられる人が勝ち残る」
という言葉を信じていて、書くことがない日に書けるのが作家だと思っているから、毎日が修行だと思って書いています。
とりあえず、何か一行書けば、次の一行は書ける。
引用したのはいずれも池上さんの発言だったので、竹内さんの発言で感心したことを引用します。
知識があるだけでは面白い文章は書けませんが、面白い文章を書くのに知識は間違いなく役に立つんですよね。
気に入った言葉を一つでも原稿に入れるなり、入れないまでも頭に浮かべて文章を書くようになると、その部分だけでなくて、文章全体をちょっと洒落たものにしないといけない気がしてくるんです。
(中略)
いい言葉を一つでも仕入れると、その前後がいかにも駄文というのは、具合が悪く感じられる。一つのいい言葉を活かすために、他の部分の表現も自然と工夫するようになる。こうして文章全体のレベルが上がっていくんです。
余談ですが、竹内さんの執筆する「編集手帳」について気になっていることを。
『本の雑誌』06年5月号に掲載された「坪内祐三の本日記」に以下の記述がありました(『書中日記』から引用)。
2月20日(月)
(前略)続いて読売新聞を読む。同紙一面のコラム「編集手帳」は朝日新聞の「天声人語」よりもずっとコラムらしい読みごたえがあるのだが、今日のテーマはイギリスの経済誌『エコノミスト』の編集長ビル・エモットの新著で、「近ごろ邦訳が出版された『日はまた昇る』である」。ふむふむ、どうやら素晴らしい本らしい……。と思いつつ、新聞をがばっと開くと、第二面の下に、その『日はまた昇る』(草思社)の巨大な広告が。ようするにパブ・コラムだったわけ?
実際のコラムの内容を確認しようと、06年8月に発売された『読売新聞 朝刊一面コラム「編集手帳」〈第10集〉 』(中公新書)を書店で手に取ったら、この日付のコラムが収録されていませんでした。
収録されていないということは、やっぱり「パブ・コラム」(広告タイアップ・コラム)だったの?ともやもやし、今も忘れられずにいます。実際のところは、どうだったんでしょうか?
石塚真一『BLUE GIANT』から読み解くジャズとロックの違い
日本の音楽シーンではロック・バンドが大切に扱われています。結成30周年を迎えてベストアルバムリリースします、結成20年で初めて武道館公演決まりましたとか。
大切に扱われていないのが、セッション・ミュージシャン(スタジオ・ミュージシャン)と括られるソロアーティストやバンドのサポートを務める方たちです。
グレイプバインに帯同している金戸覚&高野勲、奥田民生のツアーに参加する小原礼、などなど。
最も過小評価されているのがオカモトズのハマ・オカモト。
ベーシストとしてソロアーティストやアイドルグループなどのレコーディングに引っ張りだこなのに、オカモトズが乗り切らないため、「浜田雅功の長男」という紹介のされ方が一般的になっています。
ドラマやCMで流れる星野源の「恋」と「Drinking Dance」でベース演奏しているというのに!
こういった状況下なので、ロックバンドを描いた作品(「BECK」とか)は、主人公がバンドメンバーに出会いバンドを結成して以降は「バンド」が主役になります。その中での人間関係が描かれるうちに、主人公は徐々に影が薄くなっていきます。
石塚真一「ブルージャイアント」が扱うのはロックではなく、ジャズです。
服部文祥が「みすず」に「ユキノリの境遇はあんまりです」とコメントを寄せた10巻に掲載された出来事。
主人公・宮本大の組んだ「ジャス」がロック・バンドならあり得ない展開ですが、ジャズ・トリオであったから、宮本大はそのことを受け入れて海外へ向かいます。
今まで何万人がジャズプレーヤーを目指して。でも、なれない。そういう世界だと思います。それにジャズは一生同じメンバーで演るものじゃない。組む人間はどんどん変わっていくものです。
これがロック・バンドとジャズ・トリオの違いであり、別れは予告されていたのです。
ロック・バンドは続けていくことに重きがおかれ、ジャズ・トリオは個人の成長に重きが置かれています。
ロックは終身雇用で、ジャズはキャリア・アップのための転職を推奨しています。
ロック・バンドが海外では流行ってなくて、日本では解散しないまま同じバンドで50代になろうとするミュージシャンが増えていることの違いはこの辺りにもあるような気がします。
ギター&ボーカル、ベース、ドラムの3点セット+αが基準なっているロック・バンドに比べて、ジャズ・トリオの編成は自由です。
「ブルージャイアント」で宮本大が組んだジャスは、テナーサックス、ドラム、ピアノという編成であり、ドイツに渡った海外編「ブルージャイアント・シュプリーム」では、たまたま見かけたジャズトリオにいたベースの女性と組もうと画策しています。
「ブルージャイアント」はジャズを題材としていますが、それはロックバンドと置き換え不可能なジャズの世界なのです。
こちらもどうぞ
石塚真一『BLUE GIANT』が描く金銭感覚について
※ 2016年4月に書いたものを書きなおしました
石塚真一「BLUE GIANT(ブルージャイアント)」が音楽を描き、青春を描けている点において傑作なのは異論を挟む余地がありません。
ただし、「音楽」「青春」というジャンルを超えて、すべての漫画の中で「BLUE GIANT」が突出している素晴らしさについてはまだまだ語りきれていません。
語られていないことの一つが「お金(金銭感覚)」についてです。
金銭感覚やお金についてのエピソードが挟まれることで、「登場人物の生活する世界」と「私の生活する世界」が地続きであると認識させられます。
他の音楽マンガ、例えば『BECK』。釣堀でバイトしてる割には生活に困ってなさそうです。
例えば『ピアノの森』。主人公・カイは「森の端」という被差別地域を思わせる出身であっても阿字野の後ろ盾があったからとすんなり援助を受けることができています。
いずれも違う世界の凄い出来事として読んでいました。
「BLUE GIANT」の中から、金銭感覚の描かれたエピソードをいくつか紹介します。
主人公・宮本大の使用する楽器は、高校生の時、少し年上の兄が初任給の残りを頭金にして36回払いのローンを組んで買った51万6千円のテナー・サックスです。
宮本大が上京して組んだジャズトリオ「JASS」。7巻に収録された第50話で、「JASS」が初めてもらったギャラの使い道が描かれます。
ギャラの3万円を「JASS」の3人が1万円ずつ分け合います。
ピアノの雪祈はお世話になっているジャズバーの店主と母親に花を贈り、ドラムの玉田はドラム教則本とドラムの先生への御礼として缶ビールを買います。
そして、宮本大。
雅兄ィは、オレに店で一番いいサックス買ってくれたんだよな。すげえよな、、、初任給で何十万のローン組んだんだもんな、、、オレは、、、できねえ。同じことは、、、できねっちゃ。オレは自分のため、、、オレ自身のために金を使わなきゃ。
というモノローグの後、「俺が今引き落とせるのは、、、ギリで4万円」というセリフとともにATMからおろした4万円とあわせて税込49,800円のフルートを買い、妹の住む実家に宅配便が届けられます。
ジャズ・トリオ「JASS」に目をつけたレコード会社のジャズ担当・五十貝は、最低7,000枚以上売れると見込んだ新譜CDの初出荷枚数が1500枚だったことを同僚に愚痴ったあと、以下のやり取りがありました。
「なあ、五十貝。お前、このアルバム聴いたことある?」
「当たり前じゃないですか。誰もが知ってる名盤すよ。」
「これ20年前は3,600円で売ってたのよ。1枚で3,600円。ま、それだけの中身があるレコードだったしな。このアーティストのアルバムを5枚買うと、ドーンと18,000円。でも今は、こうして5枚まとめて、ハイ千円だ、千円だー!ジャズの名盤5枚で千円だよー!!」
「それがナニか?」
「いや、、、だからさ、オレも大好きなジャズの仕事につけたはいいが、ショックですよ。オレが昔必死で集めたレコード達をまとめて千円で売ってんだもん、、、このオレがさ。」
CDショップのジャズの棚で見つけた『BEST OF BLUE NOTE』という3枚組45曲収録のCDは、輸入盤ですが、1,000円でした。
お金や金銭感覚についてのエピソードが挿入されることで、ジャズで生計をたてることの厳しさだけでなく、厳しくても接点を途切れさせないジャズの魅力が伝わってきます。
『BLUE GIANT』は、このよう作品でもあるのです。
トリビュート・アルバムに光を。
「加山雄三の新世界」購入を機に、自分のメモとしてトリビュート・アルバムの一覧をまとめてみようとして、29枚にもなり、自分の「トリビュート・アルバム好き」を認識する結果となりました。
私は、トリビュートされる側のアーティストのベスト盤として買ったり、愛聴しているアーティストが何組か参加していれば購入しています。
そもそも、トリビュート・アルバムのカバー・アルバムに違いはあるんでしょうか?
ユニコーンが、再結成前/後で「ユニコーン・トリビュート」/「ユニコーン・カバーズ」としたようにアーティストによってこだわりはあるのかもしれませんが、明確な定義づけができません。
Bank Band「沿志奏逢」のように単一アーティストによるのならカバー・アルバムで、複数のアーティストの曲をコンパイルしたのはトリビュート・アルバムであると私は考えています。
「カバー・アルバム」がヒットチャートを賑わすのに比べ、「トリビュート・アルバム」はバンドやアーティストの周年を記念してリリースされる御祝儀のような企画で、オリジナル・アルバム優先で、売り上げは求めてないのかなと思わせられます。
売り上げを求められていないにしても、「○○の結成○○年を記念してトリビュート・アルバムがリリースされます」「参加アーティストは〇〇、〇〇、○○です」というテンプレートの情報がニュース・サイトに掲載されるだけで終わるのは勿体ないように思います。
トリビュート・アルバムに収録された楽曲の9割は他に収録されることがないし、クオリティが低いわけでは決してないから、存在を知られてないとすれば悲しいことです。
目立たない理由として、参加したアーティストが宣伝活動に力をいれずらいということもあるのかと推測します。オリジナル・アルバムなら宣伝活動しやすいけれど、10組のうちの1つという認識なら、自分が宣伝しなくても、、、となりそうだし。
とはいえ、1組2組でも気になるアーティストが参加したら購入することをお薦めします。
「加山雄三の新世界」についていえばPUNPEE「お嫁においでよ」はアナログ持ってるしダウンロードもしたけれど、KAKATOやRYMESTARが参加していたので買いました。
聴いてみるとももクロ×サ上&ロ吉はピンとこなかったけれど、他のアーティストは100点の出来が連発していました。
RITTOを初めて聴いたけれど想像を超えて来たし、水曜日のカンパネラのコムアイは歌がうまいことを知り、ポエトリーリーディングみたいな曲ばかりでなく、歌えばいいのにと思いました。
トリビュート・アルバム29枚をリストアップして気づいたのは、アーティストの楽曲をそれぞれ選んでもらって収録するだけでなく、コンパイルの仕方に趣向が凝らされたものがあるということです。
女性アーティストのみ(例 「ウルフルズトリビュート」)
ソロ・アーテイストのみ(例 「宇多田ヒカルのうた」)
1曲のみ (例 「深夜高速」)
アルバムへのトリビュート (例 「JUST LIKE HONEY」)
作詞家へのトリビュート (例 「風街であいませう」)
本人の歌唱も含める (例 「加山雄三の新世界」)
トリビュート・アルバムについて調べたら、ウィキに以下の記述がありました
『60 CANDLES』は1997年4月23日に発売された加山雄三のトリビュート・アルバム。加山雄三の60歳の誕生日を記念して制作された。
日本国内ではレコード会社間の関係等の影響で、トリビュート・アルバムが制作されることはあまりなかった。しかし、プロデューサーである木崎徹の働きかけにより、レコード会社の垣根を越えたアルバムの制作が実現された。