エムカク「明石家さんまヒストリー2 1982~1985 生きてるだけで丸もうけ」


〇不世出の明石家さんま

今のピン芸人明石家さんまを置き換えようと試みて、結局誰にもあてはまらないことに気づきます。

明石家さんま笑福亭鶴瓶所ジョージといったお笑いコンビを経ていないピン芸人の司会者がいません。

今のテレビで司会をするのは、お笑いコンビという軸のある司会者ばかりです。

純粋なピン芸人の司会者は、Wコージというユニット経験はあるが、今田耕司くらい。

陣内智則は司会への熱があるかは不明。

 
〇「明石家さんまヒストリー」は何巻が一番面白いのか?

1巻 1955年~1981年 27年間

2巻 1982年~1985年  4年間

3巻 1986年~1992年  7年間

 

私は明石家さんまのファンというわけではないけれど、それでも「明石家さんまヒストリー」に引き込まれ、買い続けるんだろうと思わせられます。

2022年の初春に発売が予定されている3巻は「さんまの結婚」という副題がついているので、大竹しのぶとの共演から1988年の結婚を経て、1992年の離婚までが描かれるのでしょう。

明石家さんまについて詳しくないのでウィキペディアをみたところ、結婚している期間はレギュラー3本程度を残し、仕事を絞っていたとありました。離婚後は家に絡んだ借金返済のためレギュラーを増やしたとありました。

ここ数年はドラマに出演することはなくなり、「明石家マンション」のようなお笑いの濃い番組もすることなく、ニュースキャスターもせず、雑談芸を極め、自由にやっているように見えます。

 

さて、「明石家さんまヒストリー」は何巻が一番面白いのでしょうか?

1巻にはビートたけし笑福亭鶴瓶などと無名の時に会っていたという話や東京に駆け落ち同然で行っていた話が載っていて面白かったのですが、自分の得意技を「雑談芸」に定め、多くの番組にも出演する体力を持つ20代後半の若さで仕事にギアがかかる2巻が最も面白いように思います。

 

〇「明石家さんまヒストリー2 1982~1985」の読みどころ

1)「雑談法人・参宮橋金曜サークル」

本書で最も心引かれたのが、「雑談法人・参宮橋金曜サークル」の章。

木村政雄「さんま君からの注文は、金曜の夜は絶対に空けておいてほしい、というもの。てっきり女のコとデートでもするのかと思ったら、そうではなくて、フジテレビの『ひょうきん族』のスタッフと長時間のミーティングをやっていた。(中略)この会議で長期的な戦略を立てたり、コントのアイデアを詰めたりしていたんですね」

 
明石家さんまヒストリー」の特徴として、章というか区切りに付けられているタイトルと違う話も織り込まれています。時系列で区切っていることの制約と、話題ごとにタイトルを付けていたら区切りが多すぎてしまうからでしょう。

 

「雑談法人・参宮橋金曜サークル」で区切られた箇所には、「雑談法人・参宮橋金曜サークル」の成り立ちだけでなく、同じマンションに住んでいた研ナオコとのやりとり、そして師匠である笑福亭松之助との交流が描かれています。 

笑福亭松之助

「ある週刊誌から電話があって、さんまさんに取材に行きましたら、師匠から手紙が週に一通、時には二通くるということで、そのことについてお伺いしたい。(中略)

 電話の相手は、さんま君は師匠の手紙を『宝物』だといってますよ、といった。(ええっ、かなわんな、そないたいそうに言われたら)わずか一枚か二枚の紙片が私と彼をしっかり結んでいるのである。受け取る側の心を有り難い(あることかたし)と思って、私は電話を切った。後日、週刊誌が届けられた、茶封筒をもった杉本が一ページに写っていた」

さらに、三宅恵介の証言が追い打ちをかけます

「さんまさんは、落語をやっていないけれども、落語会の師匠に教わったことを、大切に持っているかたなんです。

 ひとりでいるとき、さんまさんは、思いついたことを、大きなノートにメモしていますよね。あの人、そういうことをしている姿は、人に見られたくないでしょうけれども」

 

他にも読みどころは多いので、駆け足で。

 

2)NSCダウンタウン(1982年)

明石家さんまダウンタウンが同じ画面に映る機会は少なく、「笑っていいとも!」の最終回がいまのところの最後です。

NSC入学当時のダウンタウンをさんまも見に行ったことを紳助が話す場面が引用されています。 


紳助「ほんで、あれ、えらいもんやねぇ、本人の目の前で言うのはなんやけど、終わって帰って、さんまも行って、巨人も行って、帰ってきて会話したときに、“どうやった?”って言うたとき、“一組だけ、いるな”って言うてん。“一組だけズバ抜けてるわ”って言うて。“誰?”って言うたら、ダウンタウン(当時のコンビ名=松本・浜田)って。3人とも意見は一致やったで」

 
3)「笑っていいとも」との関わり

タモリ小田和正を嫌いなのは知っていたけれど「テレフォンショッキング」で共演があり、なおかつさんまが小田へつないでいたことが驚きでした。

 

4)「ひょうきん族」で産み出したキャラクター

ブラックデビルブラックデビルジュニア、アミダばばあナンデスカマン、サラリーマン、妖怪人間・知っとるケ、パーデンネンタケちゃんマンの相手役となるキャラクターを4年間のなかでいくつも産み出しています。コントのキャラクターに特化した対談を松本人志とやって欲しいくらい。

 

5)雑談を極めていく

1対1のトークが笑える番組になるのは明石家さんまくらいで、「笑っていいとも」のコーナー「タモリ・さんまの日本一の最低男」や「さんまのまんま」などが1984年、85年に始まています。

エムカクはそれを「“漫談”から“雑談”へ」としています。

著名人の話をテレビで聞くだけなら、黒柳徹子林修が2021年のテレビにはいます。でも、教養というか、ためになる話を提供しようとしていて雑談にはほど遠く。

 

6)とにかく活発な明石家さんま

4年間の間に、松田聖子と交流し、大西秀明を引き上げ、たけしのラジオに出て、紳助と曲を出し、ラジオに出て、桑田佳祐に曲を作ってもらい、草野球して、テニスして、日本サッカーリーグの広報活動をして、ハワイに傷心旅行行き、ニューヨーク弾丸ツアーに行き、所ジョージと初コンビを組む。

「なぜそんなに元気なのか?」と著者も書いてしまうくらいに活発な4年間。

 

7)いくつかの死

1983年~85年、28歳から30歳にかけて近い存在の死がいくつも訪れています。

弟、林家小染、祖父・音一。加えて、日航機の墜落。

日航機の墜落については「運命を分けた」と添えられており、紙一重であったことが書かれています。

僕の知る限り、さんまさんが「生きてるだけで丸もうけ」という言葉を口にされるのは1986年以降。この1985年に起きた日本航空123便墜落事故を契機に、「生きてるだけで丸もうけ」を座右の銘とし、生涯大切にしようと心に決めたのではないかと思うのです。